惑星べちべちべちむ

絵を描き字を書くオタクのブログ

たらこ祭りとイヤホン日記

11月10日(木)

お昼ご飯をお弁当で持っていこうとしたらご飯が無かったので、仕方なくおかずだけ持って行って主食をコンビニで買うことにした。せっかくの機会なので美味しいらしいとの噂を聞いたセブンイレブンの塩おにぎりを買うぞ!と思っていたのだけれど、普通に売ってなかった。ので明太マヨのおにぎりを買った。おかずにたらこパスタあるのに。おかげで今日はたらこ祭りだった。サイコー!

ところでたらこと明太子の違い知らないかも。なんか違うんですか?

あるんだ、違い。気分なのかと思ってた。ていうか「卵巣」って言われると急に生々しい感じするな。ああ、私めちゃくちゃスケトウダラの卵巣食ってたんだ……今日……って感じになる。我が子を食らうサトゥルヌスも何故か脳裏によぎるし。萎え……。

 

私の通ってる学校は割と自由なので、先生によっては作業する時好きな音楽聴いてていいよ〜という授業がある。

正直、好きな音楽聞いてる時の方が圧倒的に作業が進んでいる。いや、というより「聞きたくない音を聞いている時」に比べて「聞きたい音だけを聞いている時」の方が圧倒的に作業が進む、という表現の方が正しいかもしれない。

もちろん、なにか考える時に音楽を聞くのは向いてない。いまこうやって日記書いてる最中も何も聞いてない状態だ。ただやりたいことが定まっていて、作業をするぞ!という時には音楽を聴くと凄く捗る。

ただし、この「何も聞いてない状態」という単語の前には「聞きたくない音を」というフレーズが隠れている。つまり何も聞いてないとは言うものの、音楽を聞いている時と心情はほぼ同じということだ。

聞きたくない音を聞くことが強いストレスになったのは高校生あたりからの話だ。仲良くない人の雑談(時には仲良い人さえも当てはまる)や、興味無いテレビの音、酷い時にはペンを走らせたりページをめくる音ですら聞きたくない音に分類された。そのため精神状態が特にやばかった時期は、イヤホンを付けてはいけないシチュエーションを除き、生活のほぼ全ての時間(曲を聞かずとも)イヤホンが手放せない状態になった。もちろんこれに自分の精神状態が関係していることなどとっくの昔に分かっている。だって、聞きたくない音が気にならない時もあるからさ。

ここからはあくまで専門的では無い自己分析での話になるんだけど、←重要な前提

聞きたくない音が気になる時というのは「今の自分にとってノイズになる情報をとにかく知覚したくない=情報の取捨選択をしたい」という願望が強い時なのだと思う。自分にとってより精神に影響が出るのが「聴覚からの情報」だっただけで、他の人もそういう願望はあるのだろう。

そして、皆もそれに耐えているはずなのに自分だけ「聞きたくない音を聞きたくない!」なんてわがままが許されていいはずがないと思う反面、はたしてその「皆」と私とで受けるストレスは同程度なのかな?という気持ちもある。多様性やね(?)。

でもこれだけは言いたい。

イヤホン付けてる時の方が人生上手くプレイできるからいつでもイヤホン付けさせてくれ〜〜〜!!!